ボランティアの意義

「ボランティア」という言葉がよく聞かれる世の中になった。
このボランティアについて最近疑問に思うことがある。

ボランティアは・・無償であるべきか、否か。

ボランティアの概念は皆、一律ではない。
「自発的に」という点では一致しているだろうが、それ以外の点では捉え方が様々である。

私自身、20代に入った頃からいくつかのボランティア活動に携わっている。 
活動を続けられること、家族の理解、活動を続ける中で得た様々なご縁に深く感謝している。
とはいえこの10年。得たことも多ければ、悩んだことも多い。
結果的にはすべてが自分の成長の糧となっているはずだが・・・。
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わたしはこれまでずっと、無償派の考えでいくつかの活動を続けてきた。
有償であったとしてもそれは、交通費や通信費をいだだくのみで、実質的には、無償ばかりだ。

でも、ここ1年ほど
「ボランティアは無償であるべきだ」という考え方は正しいのか?と自身に度々問うている。
なぜなら、ボランティアを安価な労働力だとみなすような場面に遭遇することが増えたからだ。


人間は誰しも、「はじめに自分の生活ありき」。 
マザーテレサのように生きられる人は、それが理想の姿であっても・・現実にはそうそういない。
自分の生活の中で。細切れ時間を使ったり、金銭的な部分をうまくやりくりしながら
自身に支障のない範囲で行うのがボランティア、のはずである。

なのに最近・・・本末転倒では?こちら側の意思は? と思わせてしまうような、
少々強引な活動要請が目につくようになってきた。

たとえば何かの活動を始めようと、ボランティア仲間を募る時。
行政からのボランティア要請を受ける時。
ボランティア団体に寄せられる様々な活動依頼に耳を傾ける時。

行政に関していうならば・・・
要請をする側は仕事の一環としてその活動を起案し、ボランティアメンバーを募る。
(当然ながら、ここは有償である)
たとえばその時、参加者が自らの仕事の時間を削って参加しなければならないような場合。
そしてその仕事がたとえば時間給のような給料形態だった場合。

ボランティアメンバーとしてその場に参加するならば当然ながら自分の生活給は削られる。
(ということは生活給減少とボランティアで、二重の無償だとみなしてよい)
だからここでは、ボランティア要請に対する「YES」or「NO」の意思の余地が与えられて当然のはず・・・
ボランティア要請をする側に・・・そういった考慮があっての行動ですか?と問いたくなることがある。

「あの人はボランティア好きだから、頼めば何でもやってくれるよ」・・・って、それでいいのかな。
ボランティアを募ることにたいして、ちょっと安直すぎやしないかな。
「ボランティア=暇人」とは違うよ?
意思表示の余地を許さないような、少々強引な要請。  はて、これはどうしたものか・・・。

運営面からみてもボランティア参加者の意思の面からみても
うまく物事が流れていて、かつ、今後もその継続的な見込みがあるような、
そんな団体にノウハウを習うべきだな。 有償ボランティアの実情についてもっと知るべきかな。
自分が関わるところも、そういう点では転換期かな。 ・・と、そんなことを感じている。
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行政については、負債だの赤字だの、誰が見たって苦しさがわかる世の中だから・・・
市民の力で、ボランティアの力で物事を進めていけたらそれが一番であることは、重々わかる。
しかし、そういう状況だからこそ参加者の「意思」あっての活動になっているかどうか
という点を常に感じ取っていてほしい。 ボランティアに集う者は、行政の下請け会社でもなければ、
「はい、これをやりました」という、行政の実績づくりのための動員候補でもない。

心の通い合い、互いを感謝しあう気持ちが感じられるならば、ボランティアは進んで喜んで、集まってくるものだろう。

そこに参加者の「意思」があるならば、「自発性」があるならば、
もう放っておいてもその活動は多いに実を結ぶはず。
実際に、そういった活動だって現存しているから、そこは行政側の働きかけがうまかったのだろう。
「ボランティア」にも様々な形があることを、十把ひとからげでは長続きせぬことを、知っておられるのだろう。


最初は「誰かの役に立てるのなら・・」「自分にできることがあるなら・・」
といった気持ちで取り組みだすもの。
しかしながら、段々と活動の年月を重ね、活動の幅が増えてくると・・
自分の生活の中でボランティア活動時間の占める割合がけっこう膨らむものだ。

そうこうするうちに「私はなんで、こんな嫌な思いをしてまで活動を続けているの?」と
自問自答をしたりする。 私にも、そんな時期があった。
家族に「そんなに悩みを抱えてばかりなら・・もうボランティアは辞めてくれ」と言われたこともあった。
(今は家庭を第一に取捨選択できる環境なので、そんな気持ちになることは滅多にないが・・)


ボランティア活動ができる、というのはある意味、
自分の生活に(金銭的にも生活時間的にも)少々の余裕があるからこそ。
いや・・なくてもやれる!という人もいるだろう。 けれども、自分はその類ほどの人間ではない。

好きだからこそ、なのである。 やりたいからこそ、なのである。 
だからこそ、無償だとわかっていても・・・自分の時間を、労力を注げるのである。

そこを汲み取る努力、そして輪っかに結びつける努力。 
「ボランティア」を要請・養成したいのであれば、行政は、このことにこそ力を注いでほしい。
そうでなければ、ある程度の有償をもってならば少々強気な要請も通用する、と思ってほしい。

好きだからといって、無償でやれるほど潤っている人ばかりではないことを分かってほしい。



 今日の写真  
1枚目:若木の大楠のたて看板に生えていた、まるで鳥のような葉っぱ。
2枚目:某市のコミュニティバスの一角。傘の貸し出しも、ボランティアの一つね。
   このコミュニティバスは1回百円。 乗り継ぎ券を提示すれば、百円のまま次のバスにも乗れる。
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by Mizzypon | 2008-06-30 13:39


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